坂本龍馬暗殺事件の一説には紀州藩説
紀州藩所有の蒸気船「明光丸」と、海援隊が運航する「いろは丸」が衝突し、いろは丸は宇和島沖に沈んだ。(慶応3年4月23日)
紀州藩と龍馬引き入る海援隊は、賠償をめぐって激しく交渉を続けていた。龍馬は人脈や交渉力、果ては繁華街で「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」と歌を流行らせその包囲を固め、交渉勝利のためにあらゆる智恵をつかって交渉に当たっていた。その分が悪くなった紀州藩が、龍馬を暗殺したという説である。しかし、龍馬暗殺の直後、紀州藩は7万両の賠償に応じたのでした。
というのがあるがどうだろうか?
龍馬と中岡の死は倒幕派に大きな衝撃を与えた。岩倉具視は「何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る」と嘆き、太宰府にいた三条実美は寝食を忘れるほど慟哭し、12月20日には両名のために祭壇を作って霊を祀っているとかありますけども。